まだ何も解っていなかった
病気になる前、
不平不満を言ってばかりだった。
感謝の言葉など、
カケラほども
ココロの中になかった。
傲慢だった。
病気になって全てが変わった。
何も起こらない日常が
実は幸せだった、
と気付かされた。
それまでは、
何か良いことないかなー、
とか何も良いことがなかったな、
と言った感じだった。
勉強ができる有り難さ。
部活を楽しめる奇蹟。
両親が居ること。
毎日3食食べれて、
お風呂にも毎日入れること。
全て失って初めて気付いた。
当たり前が
当たり前ではないのだ、と。
平凡な日常こそが
奇蹟なのだ、と。
私が何を言ってるのか
一番解る人は、
実際に日常を
失ったことがある人だろう。
そうでない人には
理解出来ないかも知れない。
だが、人生は長い。
年齢を重ね、
経験を積んで行けば、
次第に”当たり前”の意味が
わかってくるはずだ。
自分の身に起こらなくても、
親類縁者の中に
そうした経験をする人が
出るかも知れない。
そうして人は、
諸行無常を知ることに成る。
次第に真理を
体感するようになるのだ。
特に何かの宗教を信じなくても、
誰もが生老病死に直面する。
これだけは、避けようがない。
そうなって初めて、
人は信仰と向き合うのだろう。
遠藤周作の言葉を借りるなら、
“時節到来”
というわけだ。
働いている時は
忙しさにかまけて
魂のことを放っておいた
ビジネスパーソンも、
もはや逃げれなくなる。
それまでは
唯物論で科学教だった人も、
死の前ではどうしようもない。
遅くはなったが、
それがそのひとにとっての
“その時”なのだろう。
私は病気のせいで、
人より早く”時節”が”到来”した。
そのことを
恨むこともあったが、
今はもうそんな気持ちは
消え失せている。
毎日、
今日が無事に
終わったことに感謝して、
眠りに就いている。